きょうのひとこと・・・2013年1~4月
一粒の麦が地に落ちて(4.21)
4月1日、私たちは福岡からさらに足を伸ばし、岩国に行きました。
山の上の右端に、ちょこんと見えるのが岩国城です。
この日はお天気もよく、桜が満開で、たくさんの人と車が集まっていました。
左側が錦帯橋です。
昔ながらの屋形船も営業していて、お客さんが集まってきていました。
川の水がとてもきれいです。
橋の上には人がたくさんいて、むこうから、こちらから渡っているようです。
私たちは時間がなかったので、ここで記念撮影をしただけ。
桜といい、川の水といい、ほんとうにきれいで、気温も暖かくて川縁で遊んでいる人たちもたくさんいます。
私たちの岩国訪問の目的は、このおかあさんに会うことでした。
私が神学校の学生の頃、杉並区の久我山教会というところで奉仕していましたが、そこでたいへんお世話になったのがこの熊田さんのご家族だったのです。
熊田さんは岩国がふるさとで、私たちが東京を離れた後、岩国に帰っておられ、なかなかお会いすることが出来なかったのです。
30年もたっていたにも関わらず、私を覚えていてくださり、感激しました。
そして岩国に行ったのは、下の写真に写っている熊田正規さんのことがあったからでした。
右はお母さん、左は娘さん。
正規さんは岩国が大好きでした。
錦帯橋のあたりの川で、いつも遊んでいたそうです。
岩国でも教会生活をしておられましたが、2011年の11月、教会の壮年会のメンバー4人で、近くの蓮華山に登られました。
標高574メートルのなだらかな山だそうですが、その下山の途中、同行の79才の方がよろけられて、転げ落ちそうになりました。
それで、そばにいた正規さんがその方をしっかり支えようとしたところ、ふたりとも崖から落ち、相手の方は軽傷ですみました。
しかし、正規さんは岩に頭部を打ち付け、出血して亡くなられたのでした。
悲しい事故でした。
しかしわたしは、正規さんらしい死に方だったのではないか、と思います。
正規さんが常々、いつも人のことを心遣い、優しくし、配慮をし、手をさしのべ続けておられたから、このような結果になったのだと・・・。
これは、正規さんの「生き方」だったのだと。
残された奥様と、ご家族の上に、主の慰めを祈ります。
森 祐理さんのこと(4.10)
あの大震災からちょうど2年目の3月11日、仙台で追悼記念礼拝があり、そこで森 祐理さんの歌を聴いたということを書きました。
森さんの歌は、ほんとうに心にしみて、思わず涙を流してしまいました。
被災地では緊張していて、涙を流す、ということはあまりありませんでしたが、その緊張がほどけ、
「泣いていいんだよ」」
と言われているような気持ちになったのが不思議です。
森さんに、肩をやさしく触っていただいたことも書きましたが・・・、今でもその時の感触を覚えています。
森さんの歌のビデオがU-Tubeで見つかりましたので、ご覧ください。
母校のさくら(3.30)
3月26日、千葉県印西市にある母校の評議員会があり出席しました。
かつては東京都国立市にあったのですが、もうひとつの母校である日本キリスト神学校と合併し、総合移転して印西市に移りました。
桜の便りがニュースで流れていましたが、ことしの桜は開花が早く、宮崎では散り始めています。
東京が満開ということだったので、カメラを持っていきました。
印西市に入ると、やはり開花が少し遅れているようでした。
母校の正面です。
ここは、娘も卒業しましたが、ここで知り合った男性と結婚、孫が4人与えられました。
そして、宮崎南教会からことし、一人の男性が神学部教会教職課程3年次に編入することになりました。
この建物は家族寮で、けっこうたくさんの人たちが結婚してここにいます。
子どもたちもたくさんいて、近くの小学校に通っています。
ここは国立がら移転しておよそ20年になりますが、引っ越した時植えた桜が200本、あとで植えた桜が100本。
合計300本の桜が咲き始めていました。
桜並木のしたに咲いていたヒアシンス。
かわいいですね。
桜って、成長が早いんですね。
向こう側に見える建物は、男子の独身寮です。
ここは本部の建物で、事務局や会議室などが納まっています。
評議員会もここで開催されました。
これは、大チャペルです。
屋根は木で組んであり、祈りと礼拝にふさわしい、すてきな建物です。
去年の11月の評議員会のとき、このチャペルで、学生教職員のみなさまを前にお話をさせていただきました。
正面には大きなステンドグラスがあります。
左のすみのほうで、誰かが木工の仕事をしていました。
校舎の裏側に回ると、ここもまた桜が・・・。
昼食の後、出席者の先生方と少し散歩をしました。
左端の方は、数年前に宮崎南教会に来てくださった山口陽一先生です。
向こう側にしだれ桜、中央下にレンギョウの花が咲いていて、こんな写真にしてみました。
花のことを「bloom」と言いますが、ほんとに幹に力がみなぎって咲きでてくる、という感じがしますね。
被災地、あれから2年(3.20)
大震災からちょうど2年目の3月11日月曜日午後2時から、仙台市にある青葉荘教会で「東日本大震災追悼記念礼拝」が開かれました。
私は宮崎空港7時35分発の飛行機で羽田に行き、東京駅から東北新幹線に乗り換え仙台に向かい、無事出席することが出来ました。
会場には入りきれないほどの人が集まりました。出席者は250人だったそうです。
お祈りがあり、讃美歌を歌い、挨拶があり、2年前の写真などが紹介されました。
そのあとに、福音歌手の森 祐理さんが登場。すばらしい歌声で慰めの歌を歌ってくださいました。
森さんは、ご自身が弟さんを阪神大震災で亡くされていて、今回の震災後は、70回被災地を訪ねておられるのだそうです。
すごいなぁ、と思いました。
壇上で歌うだけでなく、客席におりてこられ、通路側の出席者ひとりひとりの肩にやさしく手を置きながら歌われたのです。
そして、私もいすの端っこに座っていたものですから、右の肩に手をおいていただきました。(うれしかった)
その翌日は、2年目の被災地を訪問しました。
これは岩手県陸前高田市のもようです。
ここは市の中心市街地でしたが、まったく何もかもなくなっていました。トラックのいるあたりに市の体育館がありました。
何かが出来るのでしょうか。
これは、もと2万本の松があった高田松原で、たった1本だけ残った松、みんなから「ど根性松」と呼ばれていた松の、モニュメントです。
この松は、しばらくは元気にしていたのですが、地盤沈下のため海水がしみてきて根が枯れてしまいました。
それで市は、これを復興のシンボルにしたいと複製を作ることにしたのです。
そのために1億数千万円かかったらしいです。
計画では、この3月11日までに完成、としたかったそうですが、組み上げた松を見た市民が、
「なんか、形が違うよね。」
それで、やり直しになったのだそうです。
さらに岩手県を北上、大槌町まで行きました。
白い建物は大槌小学校で、以前は壁が焼けこげてひどい状態でしたが、えらいきれいになっているので、近づいてみました。
正面に回ると、なんと「大槌町役場」の看板。
2階3階はちゃんと蛍光灯がついていて、たくさんの人が働いていました。
でも、左側手前には、二宮金次郎の銅像と、大槌小学校の校歌が刻まれた碑が残っていました。
そのすぐそばに、イチョウの木がありました。
去年の3月来たときは、まだ生きていました。
震災後起きた火災で、幹の半分は焼けていたのですが、残りの部分は生きていて、たくさんの実を付けていました。
このイチョウ、すごいな、生きているなぁ、と感動したのですが・・・・、ついに力尽きたのでしょうか。
とても残念でした。
被災者の方々にも、困難があると思いますが、みんなに支えられ、生き延びて幸せをつかんでほしいと思います。
そのあと大槌町役場跡に行ったとき、思いがけない出会いがありました。
「ほそもとたつを」さんと言う、写真右端のギターを持っている方です。
彼は大阪に住む看護士ですが、震災後10日くらいに大槌町にはいり、何か出来ることがありますが、と聞いたところ、「遺体の鑑別」を頼まれたとか。
とてもつらかったと言っていました。
その後何度も足を運び、いろいろな知り合いが出来たそうです。
彼が持っているギターは、津波に流されたギターで、見せてもらったらネックのところにひびが入っていました。
しかし、このギターにまつわる話をまとめて、「津波に負けなかったギター」というDVDを作っているのだそうです。
私も早速、一枚注文をしました。
今回のもうひとつの目的は、福島県いわき市を訪ねることでした。
福島県大熊町の福島第一原子力発電所から4キロのところに、福島第一聖書バプテスト教会があります。
いや「ありました」と言うべきでしょうか。「福島第一」という名前は教会が先にあって、そのあとに同じ名前の原発が出来たのです。
築2年だった真新しい教会の建物は今もそこにありますが、原発が出した高濃度の放射線で近づくことさえ出来ません。
2年前の3月12日の朝、突然避難命令が出て、着の身着のままでふるさとを追われた人々は、県内県外に、そして全国各地に散らされていきました。
その次の日曜日、教会では婚約式と洗礼式が行われる予定だったそうです。
この教会の牧師、佐藤彰先生(奥様は都城市高城町の出身)は、これで何もかも終わった、と思われたそうです。
ところが、教会は死にませんでした。各地を転々としながら礼拝を続け、1年ほどは東京の奥多摩にあるバイブルキャンプ場で共同の避難生活を送りました。
しかし、何としても福島に帰りたいという思いで、福島県いわき市泉地区に土地を求め、新しい教会堂がもうすぐ出来上がるのです。
新しい教会堂は大熊町の方を向いて、今にも飛び立たんとする、まるで鷲の教会、翼の教会でした。
・・・神様、この地で彼らを甦らせてください。
新しい礼拝堂の中で、佐藤彰先生と。
旧友、新友(3.7)
私が22才の夏、当時まだ国交が回復していなかったお隣りの韓国に行きました。
メノナイト教会の主催で、青年のための「国際和解キャンプ」というのが開かれたのです。
韓国の大邱(てぐ)という町の、メノナイト職業学校がその会場でした。
日本、韓国、台湾、香港、インドネシア、そして北米からも若者たちが集まっていました。
前列中央に座っているのが、主に北海道で奉仕をされたカール・ベック宣教師。
2列目の右端にいるのが、主に山口と東京で奉仕されたジョン・グレイビル宣教師。
私がこの写真に写っていないのは、この写真を撮ったからです。残念。
私たちの仕事は、新しい建物を造るための土地の造成作業で、鍬、スコップなどで土を削ったり、石を動かしたり・・・と、重労働でした。
休憩時間には、みんなぐったり。
楽しみは食事で、こんな感じの食堂でいっしょにいただきました。
食堂の一角に卓球台があって、ことばは通じなくても、けっこうみんな楽しくやっていました。
休み時間にはその学校の学生たちも寄ってきて、交流の時間がありましたよ。
そんな学生の中の一人が殷 憲基(いん・けんき)さんです。
彼の方から日本語で声をかけられ、びっくりしていろいろな話をしたのを覚えています。
まだ中学生か高校生くらいだったでしょうか。
いつか、日本に行きたい・・・そんな話をしましたが、それがきっかけで彼と文通することになりました。
日本に帰って、最初に来た彼のはがきには、
「日本国 宮崎市 佐藤省三」
とだけ宛名があり、郵便局の人はどうやって調べたのかわかりませんが、ちゃんと私の手元に届きました。
それもびっくりでした。
これはそれから何年かたって彼から送ってきた写真です。
この写真は、大邱駅前の写真だったと思います。
まだ道路は舗装されていないので、雨上がりにはあちこちに水たまりが出来ています。
いま、大邱は大都市になって、そのあと韓国の友人の結婚式があって訪ねたことがありますが、町の様子はまったく変わっていました。
日曜日には、近くの教会に行きましたが、礼拝は人がいっぱいで、これはたぶん礼拝の前に歌を歌っているんだろうと思います。
若い青年たちのすごいボリュームのある賛美で、お腹のそこから震えました。
その後、殷 憲基さんは日本に来ました。
酪農の勉強をして各地の牧場で働き、日本に帰化しました。
名前は高陽憲基となり、北海道の千歳市で自分の牧場を始めたのです。
彼の長男は、日本キリスト教団の牧師になり、次男夫婦といっしょに酪農をしています。
彼の働きはめざましいものがあり、酪農関係の新聞で紹介されました。
その記事をご覧ください。
バレンタインケーキデコレーションコンテスト(2.13)
バレンタインデーは14日ですが、11日の祭日にお友だちが集まって、バレンタインケーキを作りました。
男の子たちは、もしかすると、チョコをもらえない・・・ということもあるのかな?
次々に集まってきてくれました。
女の子は、作ってうれしい、食べてうれしい、集まればもっと楽しい・・・と、友だちを誘ってやってきました。
まずは、下ごしらえ。
いちごの「へた」を取り、ケーキの間にはさむよう、うすく切っています。
男の子たちは、ハンドミキサーでホイップクリームを混ぜ始めました。
「ぼくがやる」、「ぼくもやりたい」と、みんなでチャレンジしていました。
スポンジケーキを切って、ホイップクリームを塗り、その上に薄く切ったいちごを並べていきます。
男子グループは、なかなか上手にいちごを並べていました。
みんなの視線に守られて、緊張しながらやっていますね。
女子グループも、ホイップクリームを塗り始めました。
ケーキ台に乗せ、まわしながらホイップクリームでデコレーションをしていきます。
緊張の一瞬です。
真ん中にチョコシロップでハートのマークを書きました。
なかなかきれいに出来ているようです。
やったー。できました。
右は、男子中学生のグループの作品。
左は、小学2年生の作品です。
どちらがきれいでしょう?
さすが、女の子たち。
粉砂糖をふりかけ、雪化粧をしたようにすてきなデコレーションになりました。
作品を並べ、これからみんなでいただくところです。
自分たちで作ったケーキ。とてもおいしくいただきました。
コンテスト・・・だったのですが、それぞれに個性があり、一生懸命努力し、チームで作ったので、みんな優勝でした。
見えなかった腐敗・・・りんご(2.6)
わたしは、毎日リンゴを一個、食べています。
健康のためにいいんだそうです。
ふたりですから、毎日2個ずつ消費しますので、いいリンゴがあったときには、まとめ買いすることがあります。
この前は、あるスーパーにいいリンゴが並んでいて、しかも、一個88円。
「やったー」とばかりに、10個くらい買いました。
これは、その中の一個です。
少し変だと、お気づきになったでしょうか。
下から見ると、こんな具合です。しっかりしたいいリンゴです。
ところが、上部を見ると、こうなっていて・・・、そうです。
このリンゴ、腐っていたのです。
買うときは、よく見て、それに「コンコン」と叩いてみて、買うんですが、中がすでに腐っていたようですね。
残念です。
どうやら、腐敗は上の方から進んでいったらしく、下の方はまだきれいなリンゴです。
悪いところだけ切り取って、いいところだけ食べようか・・・、とも思いましたがやめました。
このリンゴの役割は、みなさまに見ていただいたことで十分かな、と思いました。
きょうは水曜日で、教会では祈り会がありました。
きょう読んだ聖書は、旧約聖書の士師記20章で、ベニヤミン族のなかで行われた残虐行為の報復のため、残りの11部族とベニヤミン族が戦うところでした。最初殺された女性は一人でしたが、その悪を始末するため、な・ん・と、6万5千人以上の兵士たちが命を落とした、という話です。
もともと兄弟のような仲の人たちが戦ったのです。
神さまはその戦いを支持されました。
神さまの聖さのためでした。
このリンゴも、最初は小さい、わずかな細菌が入ったのでしょうが、見えないところでそれが全体に広がって、ついに食べられなくなりました。
2月の花(2.3)
2月になりました。
一月の最後までは底冷えのする寒さでしたが、急に気温が上がりました。
ここ宮崎では、巨人軍や広島カープのキャンプが始まり、にぎやかになってきました。
教会の斜め前のお宅はお花が大好きな方で、一年中いろいろな花が咲いています。今朝はパンジーでした。
教会の裏庭にはスイセンの花。
スイセンは一番寒い時期に咲くんですね。・・・すごい。
朝日に照らされたスイセンは、暖かなオレンジと白い花びらで、一番早い春の使者ですね。
教会の生け花も菜の花が生けてありました。
どこからか切ってきたんでしょうね。
眺めてきれい、というだけではなく、食べてもおいしそうです。
我が家の畑ではいま、キャベツ、白菜、大根、ブロッコリー、ほうれん草が収穫の最中で、とても食べ切れません。
家内は、野菜を、教会に来られたご婦人に分けておりました。
星野さんの詩に、桜の木の下に行ったとき、友人が枝を下げてくれた。
星野さんは桜の花に顔が埋まり、「感動で・・・桜の花をむしゃむしゃと食べてしまった」
というのがあります。
Jesus remember me(1.26)
You-Tubeにこんな映像がありました。
Jesus remember me・・・イエス様、わたしを思いだしてください。
十字架にかけられた強盗の一人が、イエス様のお姿を見て、このようにお願いした、という聖書の記述です。
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
東京の雪(1.25)
先日、JMF(日本メノナイト宣教会)の、東日本大震災の被災者支援の話し合いで、東京に行ってきました。
杉並区の方南町に、「アナバプテストセンター」という施設がありますが、そこで集まりがありました。
宮崎空港から羽田、モノレール、電車と乗り継いで地下鉄に乗り、方南町の駅を出ると、道路の両側にうずたかく雪が残っていました。
日陰の道路には真ん中にまで雪が残っていて、それが凍っていて危険です。
会議は、北海道からひとり、東京から3人、山口から1人、広島から1人、宮崎から1人で、久しぶりに会った人もおりました。
札幌から来た人は、我が家の前はいま、2メートル50センチの雪があります。
とのこと。南国育ちのわたしには、想像できないことで、大変だろうなぁ、と思いました。
去年1年間の私たちの支援活動を振り返ると、たくさんの人たちの支援をいただきました。
また全国から沢山のボランティアが集って東北に行き、被災者の支援ができて、とても良かった。
そんな話し合いをしました。
手前が方南町教会、向こう側がアナバプテストセンターです。
2年前の3.11からまもなく2年を迎えます。
今年も3月に現地を訪問し、支援活動を行うこと、そのあとも、息の長い支援を続けていこう、ということを話し合いました。
新年と三役会(1.11)
1月1日は元旦礼拝がありました。
そのあとは少しゆっくりして、さて、今年はどんなことをしようか、といろいろ計画を立てています。
宮崎南教会は、日本メノナイト・キリスト教会会議に属しています。
そしてわたしは書記をさせていただいていますが、新年が来ると三役会というのがあり、間近に迫っている総会の準備などをします。そして、新年第一回目の集まりは大分でした。
これは去年4月の大分教会の写真です。
わたしが神学校を卒業して最初に赴任したのはこの教会でした。
あのときは、ふつうの民家のような作りでしたが、わたしのあとに佐々木淳二先生が牧師になられ、新しい会堂ができました。
木造の、暖かみのある建物です。
礼拝堂の中はこういう感じです。
右側はなんと、障子なのです。
正面の上の方にはステンドグラスがはめ込んであり、朝はそこから美しい光が射し込んできます。
一年ぶりの大分でしたが、やはり遠かったです。
最近は、東九州自動車道が整備されてきていて、先月には新たに高鍋から都農町まで開通し、そして南延岡から須美江までが開通したということでした。
行くときは、高鍋から都農町まではわかりやすいので利用しましたが、南延岡から須美江は、須美江から先ができていませんので一般道路にしました。
ところが帰りに、北川の道の駅「はゆま」に寄ったところ、そこは東九州自動車道の北川インターが隣接していたのです。しかも南延岡までは「無料」。
これは助かりました。
それで、北川から延岡の市街地を通らずに、日向インターまで抜けることができました。
宮崎と大分の県境にある曾太郎峠は以前のままで、時間がかかりました。前にトラックがいるとゆっくりです。
片道の所要時間は、だいたい4時間だったでしょうか。
教会会議では何かの集まりがあると、宮崎市で開催することが多いのですが、大分からいつも駆けつけてくれる人たちには、頭の下がる思いがしました。
ことしも執行委員会が2月10日、総会が2月23日からです。
遠方から来てくださる方、ご苦労様です。
明けまして、おめでとうございます。(1.1)
東日本大震災からもうすぐ2年、今年はどんな年になるのでしょうか。
被災者の方々には、まだまだたくさんの課題がありますが、一日も早く安心して生活ができるよう、心からお祈りしています。
きょうは、昨年の12月に東北に行ったとき、早く起きて・・・とても寒かった・・・撮った写真をご覧ください。
場所は、気仙沼市最知の海岸です。
向こうには大島が見えます。
穏やかな海でした。
気仙沼湾はとてもおだやかで、この光景だけ見ているとここに津波が来たとは思えないような静けさです。
光の帯が雲を縫って差してきました。
レンブランド光線とも言うんだそうです。
太陽がぐんぐん昇ってきて、おだやかな海に光の帯が出来始めました。
雲の間から、いよいよ太陽が顔をのぞかせます。
その時でした。
シャッターを押しているときには気がつかなかったのですが、光の中に一艘の船が入っていたのです。
その中央の部分だけ拡大すると、こんな具合になっていました。
聖書のことばに、「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
というのがあります。
今年は、光の中を歩いていこう。
そんなことを思わせるシーンが撮れていて、とてもうれしかった。
あなたの、きょうから始まる新しい一年の歩みにも、光が照り輝きますよう、祝福がありますよう祈ります。