東北ボランティアの旅
大震災から3年8ヶ月が経ちました。
今年の夏も教会から夏休みを頂いて、妻と車で、東北の被災地を訪問しました。
8月17日の夕方、宮崎港からフェリーで出発、大阪南港に到着、知人を訪問し、21日に気仙沼に入りました。
曇りがちの天候が続き、写真があまりきれいには撮れませんでした。
ここは気仙沼南小学校の跡地で、以前、何度か紹介したことがあります。
しばらくは自動車のガレキ?置き場でしたが、校舎も撤去、更地になり、災害公営住宅の建設が進んでいました
ここは、市内を流れる大川沿いです。
川向こうの、南気仙沼地区を見ると、かさ上げ工事が進んでいて、もとの光景は無くなってきていました。
しかも、かさ上げの高さが・・・高いですね。
会堂・牧師館が流された気仙沼第一聖書バプテスト教会は、ようやく新会堂の建設工事が始まっていました。
建築費の高騰で、まず礼拝堂だけ先に作ることになりました。
牧師館は先延ばしになり、嶺岸先生はまだまだ仮設住宅住まいです。
これは8月の写真です。
基礎にコンクリートを流す作業をしていました。
そして、一ヶ月後の9月、棟上げの工事となりました。
現在(2014年10月)は、外装工事が終わり、内装に入っているそうです。
完成は、来年2月の予定です。
南気仙沼に行ってみると、いくつかのところを残して、かさ上げ工事が進んでいます。
かさ上げされた土地の上に、どうしたんでしょうか。
震災時のままの姿をさらしている車が一台ありました。
もと、「第18共徳丸」が打ち上げられていた鹿折地区のその場所には、こういう展望台が作られていました。
共徳丸は、震災遺構になるという話しもありましたが、市民の反対が強く、既に解体されました。
上の方には、こういう表示がありました。
展望台の上から眺めると、こういう光景です。
木曜日の夜、気仙沼第一教会の祈祷会に出席。
久しぶりに、皆さんと語り合い、祈りを捧げました。
日曜日の朝、以前、泥かきのボランティアで訪れた、もと、南気仙沼駅の近くに行ってみました。
ちょうどご主人と奥様がおられて、当時の写真などを見せてくださいました。
そして、この場所は、最初は市から、「ここに住んで良い」と言われていたそうです。
それで、家と木工所の修理をしてここで仕事をしておられましたが、最近になって、「ここはかさ上げするので、家を解体してください」と、言われたそうです。
その高さは、上の写真の、線路の高さ。
たいへん困惑しておられるようでした。
かさ上げが終わり、家を建てて住めるようになるのに、さらに今から6~7年かかると。
「たいへんですねー。」
という他に、ことばがありませんでした。
日曜日は、第一教会の礼拝に出席しました。
メッセージをしておられるのは、嶺岸浩先生。
礼拝後の、愛餐会。
新会堂の建設工事が進んでいて、みなさん、明るかったです。
礼拝が終わって、南三陸に向かいました。
途中で、こんな新しい建物ができていました。
いろいろなところにチェーン店がある、ルートインホテル。
いまは災害復興でにぎわっているそうですが、それが落ち着いたら、老人保健施設にする、ということで、高層建築ではなく、3階建てになっています。
本吉地区の、気仙沼線の鉄橋跡。
ここはまだ、被災した時のままです。
津波に浸かって、元気のなくなってきている杉の大木。右手の杉が弱っています。
南三陸、歌津地区の様子です。
ここにあった歌津大橋は解体されましたが、あとはそのままです。
南三陸の防災対策庁舎跡。
どうやらこれは、国の支援があって、震災遺構として残るようです。
南三陸、長清水(ながしず)地区の、阿部さんといっしょに記念撮影。
長清水地区を案内してもらいました。
ここは、彼女の家があった場所です。
水門の「塔」がありますが、あの上1メートルの高さの津波がここを襲いました。
水門から奥の方を見た写真です。
ここは平地が、細長い三角形をしており、押し寄せた津波が奥に行くに従って高く盛り上がり、標高35メートルくらいのところまで来たそうです。
彼女の義父は、津波が来たというので山の方に向かった逃げたそうです。
ところが、おじいさんは行方不明のままで、しばらくして海から遺体が上がったということでした。
しかも、損傷が激しく、DNA鑑定でようやく、本人確認ができたということでした。
この地区には、35戸の家がありましたが、そのうち無事だったのは、わずか2戸でした。
この地区の人たちのために、近くの山を削って、宅地造成工事が始まっていました。
皆さんの住居は、ここです。
しばらくは、仮設住まいです。
漁業と農業の小さな町、ここで仕事が無くなった人たちが、他の町に流出しています。
復興の「地域格差」もあるようです。
どれ一つとっても、たいへんな仕事ですが、被災地が一日も早く復興するように、祈るばかりです。
震災から1年半
「復興は進んでいますか?」
とよく聞かれますが、はい、とは言えない、がれきの処理さえままならない現実が横たわっています。
今回も、宮崎と山口の6人でチームを作り、気仙沼の「気仙沼第一聖書バプテスト教会」にお世話になりました。
ここは、前、会堂があったところですが、そこに祈りのセンターと支援センターができていて、私たちはそこに宿泊しました。
被災者のために、少しばかりの日用品、食料品を用意しました。
車に積むと、いっぱいになります。
仮設住宅を訪問するときは、人数が多いのは心強いですね。
気仙沼の教会のみなさんも手伝ってくださいました。
3日目の朝は、すてきな青空で、夜明けを見ようと海岸に行きました。
5時前だというのに、漁師さんはもう起きて準備をしています。
夜明けです。・・・東北の人たちにも本当の夜明けが来るのでしょうか。
前、鉄道だったところにバスが走っていました。
JR気仙沼線のあとです。
路線はそんなに長い区間ではなく、すぐ一般道路に入らなければならず、他の車が入らないようにガードマンが立っています。
水曜日の午前中に「祈り会」がありました。
教会の方たちと、私たち6人と、ハワイからのお客さん。
水曜日の午後、南三陸町に行ってみました。
伊里前地区は、まだこんな状況です。
南三陸の防災対策庁舎。
この3階の上まで津波が来ました。
津波の直前まで人々に避難を呼びかけていた女子職員がいました。
そしてこの手すりには、津波の中で町長さんが必死の思いでつかまっていたのです。
気仙沼、鹿折に行きましたら、あの船の前にヒマワリが咲いていました。
今回も、愛隣印刷所の阿部さんにお世話になりました。
おいしいお食事を用意してくださいました。ありがとうございました。
東北再訪問(2012.6.15)
6月4日から再び東北へ行って来ました。
ことはいつも拠点として使わせていただいている気仙沼の愛隣印刷所です。
気仙沼第一聖書バプテスト教会もここで集会をしています。
愛隣印刷所は震災と津波で大きな打撃を受けましたが、ここまで再建しました。
そして、比較的順調に業績が回復していて、新しい社員も採用されたそうです。
印刷の経験のある方で、キリスト教にも理解があり、礼拝に集っておられるとのことでした。
このおふたりは第一教会の会員で、お手伝いをしてくださっています。
私たちが訪ねた夜、阿部さんが夕食に招いてくださいました。
温かいもてなしに心から感謝!!
阿部さんのご家族は、最近この本を出版されました。
震災を忘れないために、そしていただいたたくさんのご厚意に報いたいために書かれたのだそうです。
一番最初にお孫さんの結子ちゃんの文章がありますが、これは自分でパソコンを使って書いたものだそうで、小学生らしい視点で、震災と向き合った出来事が素直に書かれています。
家族全員がそれぞれの立場から証言をしておられ、まさに「箱船」で守られた家族なんだな、と思いました。
現地に行ってからわかったことですが、水曜日の夜に気仙沼市民会館で、「ワトトクワイヤーコンサート」というものが開かれました。私たちも予定を変更してそのお手伝いをしました。
会場でかつてのボランティア仲間に会いました。
ワトトとは、スワヒリ語で子どもたちという意味があるそうです。
ウガンダでは、先の内戦と、エイズの感染拡大で国内には200万人を越える子どもたちが親を失い、家を失っているのだそうです。
北米の教会が子どもたちを支援する働きを始め、ワトト村というのを作りそこに子どもたちを集めて育て、教育を与え、将来、国を導くリーダーを育成しようとしているのです。
その子どもたちの中で歌の上手な子どもたちを集め、クワイヤー(聖歌隊)を結成し、世界中のあちこちを巡回しているのだそうです。
始めにみんなで手をつないでお祈りをしました。
歌とダンスは素晴らしいものでした。
途中でお客さんも一緒に歌い踊る場面があり、みんなで盛り上がりましたよ。
ワトトのコンサートは6月29日に大分でもあるそうです。
是非見に行ってみてください。
震災1年目(2012.3.26)
大震災1年目の3月11日の翌日から、被災地を訪ねました。
下の写真は、気仙沼第一聖書バプテスト教会のあったところですが、がれきの山はきれいに片づけられていました。
そして、その跡地には・・・。
こんな建物が建っていました。
この地域は海から近く、人が住むことはできないのだそうですが、そこに家を建てることはかまわないということで、プレハブのこんな家が建っていました。
その家には、こんな看板がつくのです。
「祈りのセンター」
と。
牧師の嶺岸先生はとてもうれしそうでした。
ここはこの教会が続けている仮設住宅居住者のための食料品支援の場所としても使われます。
私たちも、いただいた義援金から野菜などを購入して、こんな袋を用意しました。
今回配布したのは、市営野球場にある仮設住宅です。
百数十戸の仮設が、グラウンドいっぱいに建てられています。
これも、非日常的な光景で、いつもならたくさんの人たちが野球に興じる場所が、ふさがれてしまいました。
配布が終わって、記念撮影です。
震災から一年、気仙沼から岩手県の宮古市田老まで訪問してきましたが、がれきがそのまま残っているところもたくさんあり、まだまだ震災の傷跡は深く大きく、たくさんの人が新しい出発ができないでいます。
続けて祈り、支援をしていきたいと思いました。
続けて、このコーナーで紹介していきます。
新しい年に向かって
今、被災地は厳しい冬を迎えています。
ご紹介しました気仙沼第一バプテスト教会の嶺岸浩先生に、ときどき電話をかけます。
先生たちは被災して、気仙沼市内の仮設住宅に住んでいらっしゃるのです。
「先生、冷えますね。予報では気仙沼はマイナス8度だとか・・・。水道管は凍りついていませんか?」
「敷地の中で、北側、西側の仮設ではそんなことがあると聞いています。でも、我が家は南側なんで、今のところそんなことはないですね。」
「そうですか、良かった。ところで新しい会堂の計画は進んでいますか?」
「みんなで祈りながら進めていて、候補地はいくつかあるんですが、まだ決定していません。」
「そうですか。みんなでお祈りしています。」
こんな具合です。
今度は、3月11日の一周年の前後に、現地を訪ね、支援活動をする計画を立てています。
被災地のツリー
被災地では、「おめでとう」ということばを使うのに注意が必要です。と聞いていました。
クリスマスが近づいても、メリー・クリスマス(クリスマスおめでとう)と言うのは、みなさんの心にどのように響くのかな・・・、と思っていましたが、みなさんはいつものようにクリスマスを祝い、お正月を迎えたいのでしょう。
気仙沼市面瀬中学校のグラウンドにある仮設住宅には、きれいなツリーが飾り付けてありました。
近くの仮設のコンビニにも、ちゃんとツリーが飾ってあります。
私たちは気仙沼の港に、「復興屋台村」というのができたと聞いたものですから、寄ってみましたら、そこにもごらんのようにきれいなツリーが。
そして、ツリーの下の方には、漁具のうきを使った飾りがついていました。
わたしは帰りには仙台の友人と会いましたが、駅前にはこんな見事なイチョウのツリーが。
そして、私たちの宿舎の近くに、それは見事な大粒の柿がたわわになっていました。
わたしが写真を撮っていたら、近所のおばさんが、
「取って食べなさいよ。甘いよ。」
いえいえ、そんなことはできませんが、このあとどうするのか聞いてみたら、
「誰も食べないから、カラスの餌になるのよ」
という答え。すばらしい・・・。
カラスさんには豪華なクリスマスプレゼントですね。
東北ボランティア(2011.9.10)
東北にボランティアに行っているということは、お伝えしましたが、8月22日からはK日程ということで、札幌、東京、広島、山口、大分、宮崎から14名のクリスチャンが集まってボランティアをしました。
地域がいろいろというほかに、年齢も13歳の中学生から76歳のシニアまでのチームで、気仙沼の宿舎に泊まり、楽しく過ごしました。
私の左側にいるのは孫の愛ちゃんです。
仕事は、いろいろありましたが、初日の仕事は津波でからまったマグロ用の網を、丁寧のほぐす仕事でしたが、なかなか困難な仕事でした。
日本聖公会から派遣されたボランティアチームもいっしょで、30名くらいでやりましたが、ほぐしてたためた網は何枚だったでしょうか。
ひとりでするよりも、10人くらいでいっしょにするほうが良かったようです。
この網の持ち主、「網元」は、今はサンマを追いかけて北海道の沖に行っておられるという話を聞きました。
私たちは、夜は食堂で食事をしましたが、打ち上げの夜は、上がったばかりという、とてもおいしいサンマをいただきました。うまかったです。
東北訪問3回目
気仙沼の東側に大浦と言うところがあります。
そこで運んだがれきの山。
東京からのチームが10人くらい、私たちのチームが10人くらい、全部で20人ほどでやりましたが、なかなか片づきません。
「明日もここに来てやろう」
そんなことを話し合って一日を終わりました。
昼休みに近くの海に行ってみました。
こんな光景が。
私には、何か悲しみの涙を流しているように見えました。
最後の日は写真洗浄などでした。
流された写真をきれいに洗ってアルバムに入れます。
それを、被災者が見に来るのです。
広い体育館の中に、並べられています。
写真の他にアルバムやいろいろな名簿なども、きれいにして展示してありました。
展示品の中にはランドセルも。
どこかの、子どもたちのものだったのですね。
アルバムなどは、きれいにする課程でほこりがするので、外できれいにしていました。
歯ブラシや、固く絞ったタオルなどで汚れを拭き取ります。
先にご紹介した、気仙沼第一聖書バプテスト教会の集会所。
役員の阿部さんの印刷所の一室が礼拝堂になっていました。
阿部さん夫妻と今回のボランティアです。
私たちが訪ねた日の午前中に、特別集会を開かれ、40名の方たちが集われたそうです。
よかったですね。
東北訪問2回目
6月13日、震災から3ヶ月後の被災地を訪問してきました。
今回も気仙沼のボランティアセンターに登録して、被災者のご家庭に行きました。
ここは、家具などの「おそうじボランティア」です。
津波は港にある重油のタンクを破壊し、大量の油が流れ出ました。
それに火がついて、大きな火災になったところもあります。
火災にならないまでも、重油が指の先くらいの小さな粒になり、市街地に流れ込みました。家の中に侵入し壁や天上、そしてこんな家具にくっついたのです。
私たちボランティアはそれを一粒一粒、洗剤と水で洗い落とします。
忍耐のいる仕事でした。
町の中の大きな通りでは、真新しい電柱が立ち、がれきが片づいて復興のための仕事が進んでいるように見えます。
しかし、がれきの撤去は、被災地全体の15パーセントしかすんでいないのだそうです。
同じ場所の、反対側に回ってみますと、がれきは震災の時と同じでそのままになっています。
下の写真は、私たちが宿舎として使わせていただいた、気仙沼第一聖書バプテスト教会の会員のお宅です。
少し山手にあり、空気のきれいな、おいしい水があるところでした。
朝の気温は13度、とても涼しかったです。
庭に、「しらん」が咲いていて、朝の光の中で輝いていました。
その宿舎のとなりには、鹿折金山記念館というのがありました。
この奥に、非常に純度の高い金が産出する鉱山があったのだそうです。
いまは記念館だけになっていますが、中には当時の様子を伝えるものが陳列してありました。
前回この橋で写真を撮りましたが、この橋の上流はもとのままでした。
しかし、橋の下流は片づけが始まっていました。
ここにも大きな家やトラックがあったのです。
川底を掘り、大型のクレーンやユンボが乗った船が通れるようになっていました。
私がここに行ったのは、昼休みの時間でしたが、作業員がキャタピラーの横で昼寝をしていました。
お疲れさま。
私たちのグループは、中央の青い服を着た方の裏庭の、がれきの片づけでした。
仕事を始める前の写真がありませんが、サンマの腐ったもの、木片やコンクリートブロックの破片、汚泥などが埋まっていて、みんなで力を合わせて片づけ、最後には石灰を蒔いて消毒、ということになりました。
まだまだ臭いが残っています。
阪神大震災の時は、3ヶ月で現地に入ったボランティアは100万人を越えました。
今回は、被害はその何倍になっているにもかかわらず、阪神の時の3分の1なんだそうです。
あなたもボランティアに参加されませんか。
一日の仕事を終わって、センターに戻ると思いがけない出会いがありました。
左の方は沖縄から来ている牧師の親子です。
娘が一緒に仕事をしました。
右の方は、4月にここに来たときいっしょにボランティアをした仲間でした。
夕方、私たちは気仙沼第一聖書バプテスト教会の嶺岸浩先生に会い、被災の状況や、現在先生が取り組んでおられる救援活動をくわしく聞くことができました。
この教会は3年前にここに建てたばかりの会堂・牧師館が津波に流されたのです。
これは神様がくだった大きな試練であるけれども、教会がイエス様から与えられたつとめを果たす、よい機会だと、先生は熱を込めて話してくださいました。感激でした。
私たちは、被災地訪問もしました。
下は気仙沼市内ですが、前回立ち入ることができなかった地域です。
ほとんど手つかずの状態です。
さらに北に足をのばし、陸前高田市を訪ねました。
被災した高田病院です。
これは、陸前高田市内です。
市街地がこんなふうに、何もなくなっています。
広々とした空間が広がっていて、ここでたくさんの人たちが生活をしていたのだ、と思うとこみあげるものがありました。
これはアパートのようですが、4階まで津波の直撃を受けました。
何メートルになるのでしょうか。
釜石の近くで壊れた自動車が集められていました。
これは大槌町です。
ここでも火災が起こり、焼け野原になっています。
まるで、原爆投下のあとの広島のようです。
これは、病院でしょうか。
吉里吉里という地名がありますかが、そこは浪板地区と言うそうです。
そこに避難所があり、私たちが行ったとき、ちょうど赤十字の人が救援物資を持ってきていました。
避難所の中を、特別に許可をいただいて撮影させていただきました。
床の上に ござが一枚敷いてあるだけでした。
すぐ近くに仮設住宅ができていて、入居が始まっていました。
仮設住宅の一戸一戸に、赤十字から冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機が贈られていました。
なかなか大きな冷蔵庫です。
住宅について「熱く」語られる入居者の方。
ある方は、「おままごとみたい」。
他の方は、「元には戻らないのだから、新しい出発をします」と明るい声で話しておられました。
部屋は4畳半くらいの部屋が二つと、台所、トイレ、風呂です。
今回は、飛行機と新幹線で行き来しました。
東北新幹線、なかなか乗り心地がよかったですよ。
いまは、余震があるため、通常なら一関から2時間で東京に着くところを、3時間かけて走っていました。