きょうのひとこと・・・2017年10月〜

 

 



 

 

「青島太平洋マラソン」 ( 12.19)

 

 

 

先日、青島太平洋マラソンが開催されました。

 

いつもなら、日曜日なので、見れないのですが、我が家から3分のところを走るのと、三男がフルマラソンに出場する、ということで、最初のところだけ、応援に出かけました。

 

 

 

 

 

清武川の橋のたもとで、ランナーの来るのを待ちます。

白バイさんもたくさん出ていました。

スタートは、午前9時です。

 

 

 

 

 

珍しい車が先頭を走ってきました。

本部の車のようです。

 

 

 

 

 

続いて、また白バイとパトカー。

とてもたくさんの警察官が配置されていました。

 

いよいよ先頭のランナーです。

先導するのは、女性の乗った白バイ2台。

 

 

 

 

先頭は、松本翔選手。

この松本選手が、フルマラソン1位でした。

2時間19分53秒のタイム。

胸には、番号ではなく、名前が書いてあります。

さすが、招待選手。

 

 

 

 

女性の白バイ隊員のお顔を見てください。

 

前の日にニュースでやっていましたが、このうちのひとりは、青島太平洋マラソンを先導する白バイの姿に憧れて、交通機動隊に就職。

夢が叶って、24歳で抜擢されたのだそうです。

良かったですね。

 

 

 

 

さて、ランナーたちがやってきました。

ゼッケンを見ると、「A・・・・」と書いてあります。

足に自信があり、それなりの記録を持つ方たちが、このAグループに入れるのだそうです。

 

 

 

 

次は、Bグループ。

 

 

 

 

Cグループの番ですが、このあたりには、参加することに意義あり、みたいな方たちがいらっしゃいました。

仮装大会のようでした。

 

 

 

 

「ゲゲゲの鬼太郎」に扮した人も・・・。

 

 

 

 

ようやく、Dグループの通過。

三男は、このグループでした。

このあと、Eグループ。Fグループまであったそうです。

 

参加者は3キロ、10キロコース入れて、全員で1万2000人だったとか・・・。

 

 

 

 

市街地を走る三男。

 

 

 

 

ゴール直前の雄姿 !!。

足が大変だったそうです。

タイムは、4時間7分33秒。

全体の、2378位だったそうです。

 

 

 

 

 

ちなみに、最後の方は、6時間23分33秒。

6640位でした。

 

みなさま、ほんとうにお疲れ様でした。

 

 

 

 



 

 

「楽しい大工仕事」 ( 11.22)

 

 

最近、久しぶりに大工仕事をしました。

フローリング工事です。

 

まず、8畳のタタミを始末するんですが、最初は、「うーーん、どうしよう」と思ったんでしたが、答えは意外に簡単で、市のゴミ収集車が「燃えるゴミ」として持って行ってくれました。

縦と横が、1メートル以内なら、ゴミ袋の「大」をくっつけておけばOKでした。

畳は、横90センチ、縦1,8メートルですから、カッターナイフでバサッと半分に切って始末が出来ました。

 

その次は、「根太」を張る仕事です。

根太と床板は、知り合いの建材屋さんに用意してもらいました。

 

床板の上に90ミリのネジ釘で根太を固定します。

普通の釘だと、一度打ったら、抜くのが大変ですが、ネジ釘だと、ドリルでねじ込んだり、また、抜いたりするのが簡単にできます。

 

問題は、床が、「水平」ではない、ということでした。

3ミリ、4ミリの誤差があるところがあり、新しい床板を当ててみると、隙間が・・・つまり凸凹ができてしまうのです。

「目標は誤差1ミリ以下」でした。

 

それで、高いところはカンナで削り、低いところは根太の下にベニヤの切れっ端を差し込んで調節しました。これが結構時間がかかりました。

 

そして、いよいよ床板張りです。

 

 

 

 

問題は、両端のつなぎ合わせの部分で、きれいに、直角に切らないと壁の部分と隙間ができます。1ミリ程度長めにカットして、最後はカンナで削って仕上げる、という細かい仕事をしました。壁にピタッとはまる時は、嬉しいもんですよ。

 

暇を見つけてやるので、数日かかりましたが、ようやく板張りが終了。

 

最後の一列は、右の窓側でした。

壁、って、直線じゃないので、それなりの形に仕上げるのが、時間がかかりました。

 

 

 

 

初めの頃張ったところは、まだなかなかうまくいかないで、壁際に1ミリ程度の隙間ができました。それで、色つきのパテを買ってきて、マスキングテープを貼り、そのすきまに指でパテを押し込みます。

パテは、水溶性なので、あとで削って修正したりでき、手に付いたパテも水洗いで簡単にきれいに落ちます。

パテは、柔らかいうちは少し白っぽく見えますが、乾くとまわりと同じような落ち着いた色になってきます。

 

 

 

 

 

 

楽しいフローリング工事でした。

 

また、どこかをやってみたい。

 



 

 

「ひとり、ふたり、そして5人」 ( 10.29)

 

 

教会で出している「心のひろば」の話を載せます。

 

 

「さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」
                         マタイ福音書19章3〜6節

 

 

 私たち夫婦は昨年、無事、金婚を迎えました。いろいろな事が、時には辛いこともありましたが、ふたりで生きる喜び、幸せを味わいました。
 妻の父は彼女が中学生の時に胃ガンで亡くなりました。結婚する時、あちらの兄弟がお祝いに、鏡台とふとんをプレゼントすると言いました。そして尋ねられました。
 「ふとんはシングル ? それともダブル がいい ? 」
 私は即座に、「シングル」と答えました。・・・私が疲れて・・・いびきをかくこともあると思ったからです。


 東北のボランティアに行った時、やむを得なくてダブルベッドに寝たことがありますが、あちらの方から「波」が押し寄せてきて、ぐっすり眠ることができませんでした。 眠る、という、大切なリクリエィション(再創造)の時、人間はひとりになっていなければ、神様の祝福を、力をいただくことができないのです。


 藤木正三という牧師が、こんなことばを残しています。
 「愛する人々に囲まれ、なすべき事をなし終えた満足を味わいながら、安らかに息を引き取るとしても、依然として死が痛ましい悲惨であることには変りはないでしょう。なお生きんとする途上に起ることとして、死は本質的に野垂れ死に以外ではありますまい。愛と静かさに包まれて迎えるにしても矢張りそうです。死に際の安らかさよりも問題は、そこに途上に果てる無念を味わうか。それとも出尽した自分の全容をそこに見抜いて合点するかです。」


 たとえ夫婦であっても、人は本質的に、ひとりで生きるべきもの、死ぬべきもの、ということを教えられました。

 

 

 そして創造主なる神は、人を男と女に造られました。神の「かたち image 」に造られたとあります。イメージというのは、男と女が信頼し合っていっしょに生きていく時に、
そこに神様がおられることが、雰囲気としてわかる。神様のほのぼのとした愛が、自然に伝わってくるということでしょうか。
 聖書によれば、神様は、「父・子・聖霊」という三位一体の方ですが、人間も「男と女」という二人一体のあり方を持っています。男と女、それぞれに自立していますが、そこに信頼と愛があれば、「いのちの恵み」をともに受け継ぎ、家族を生み出し、未来を創造していくことができるのです。
 私はやはり「結婚できて良かった」と思います。

 

しかし、ふたりで生きることには、厳しい側面もついてまわります。
 藤木牧師のこんな言葉があります。


 「二人、それは人間と人間とが結ぶ最小の関係です。しかし、人間の問題を示す意味においては、それは最大の人間関係です。二人においては、相手からたとえ目をそらすことができても、自分からは決して目をそらすことはゆるされなくなるからです。目をそらすことをゆるさない、この自分自身への緊迫、二人の関係が他にまさって人間の問題を鋭く示す所以は、これです。二人の関係ほど、自分の人格的損壊を痛烈 に自覚せしめるものはありません。人間に孤独を味わわすのは、恐らく一人よりも二人においてでありましょう。」


 人格的損壊・・・それは罪と言っても良いでしょうか、棘のように痛いものです。
 結婚は、人が切磋琢磨しながら、されながら、高められ清められて天国に向かう「道」、そして「道場」のようなものかも知れません。

 

 

 3人目の子どもが生まれて、はたと困ったことがありました。
 私と妻、ひとりずつ子どもを抱いても、ひとり余るのです。余った子どもは・・・大抵はお姉さんが・・・「我慢」を強いられ、「寂しさ」を味わうことがあったでしょう。
 ある人は、子どもが3人になって初めて、「家庭」になるんだ、なんてことを言ってました。我が家は子どもが6人になりましたから、もはや「放牧状態」でした。そのおかげでしょうか。子ども同士はとても仲良くやっているので、有難いと思っています。


 三浦綾子さんが「孤独のとなり」という本を書いています。
 「雑沓の中の孤独」ということばがある。まわりにいくら人がいても孤独を癒すことはできない。・・・だが幸い、ついに私はその孤独の淵から立ち上がることができた。立ち上がらせてくれたのは、私の場合、イエス・キリストの父なる神であった。自分が孤独だと思っていた時、実はすぐそのとなりに神がいたのである。・・・「孤独のとなりに神がいる」。


 天におられるまことの父を発見し、出会い、その子どもとなって、私たちは改めて「神の家族」に加えられる。神の家族になる、というのは、私たちは「永遠の家族」になる、ということです。思い返せば、家族はもとより、家族以外のたくさんの人に支えられました。時には、もう二度と会いたくない、と思った人もいました。しかし、振り返れば、そういう反面教師のような人もいて、今の自分がある、今の幸いがあるのだ、と思えるのです。それは、とても有り・・・難いことでした。


 天国では、もはや人と人が憎しみ合うことはありません。イエス・キリストの十字架により、罪赦され、清められた人々が共に、感謝と喜びをもって神の前で、永遠の安らぎをいただくのです。ヨハネの黙示録22章には次のことばがあります。


 「神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」
 

 

 

 



 

 

「酔芙蓉が咲きました」 ( 10.6)

 

 

山本さんにいただいた酔芙蓉の苗を、畑に植えました。

それが大きくなって、こんなに見事な花をつけ始めました。

 

 

 

 

花のいのちは短いです。

 

朝咲いた花は、純白で、とても綺麗です。

 

 

 

 

それが、昼頃になると少しずつ色がついてきて、ピンクになります。

 

そして、次の日には、右側の花のように、赤くなるのです。

 

「酔っ払いみたい」というので、酔芙蓉という名前がついたのだそうです。

 

 

 

 

 

 

時の移り変わりを、こんなふうに表現してくれる、なんて、素敵だなぁ、と思います。

 

 

聖書の言葉があります。・・・マタイ福音書6しょう8節以下

 

なぜ、着物のことで思いわずらうのか。

野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。

働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

 

 

 

きょうの、あなたの1日に、天の父なる神様の祝福が豊かにありますように。