きょうのひとこと・・・2023年1月



「謹賀新年・・・2023年」 (2023,1,1)

 

明けましておめでとうございます。

 

新しい年がやってきました。

 

そして・・・長い間、更新をせずに、ご無沙汰をしていました。

 

春の後は、夏が来て、天高く馬肥ゆる秋が来てクリスマスを祝いました。

 

ここも、コロナの影響がもろに出て、桑原先生と、ご家族の間に感染者が出て、せっかくいろいろと準備していたのに、クリスマスは、写真のようでした。

 

 

 

 

 

 



実は、私も妻も入っていません。

神様のなさることは、よくわからない時もありますが・・・、私の長男が48歳で、勤務中にくも膜下出血で突然死し、葬儀を終えたばかりでした。しかし、葬儀を通して教えられたことは、私たちは、本当にたくさんの人たちに、支えられ、祈られて、生きているんだ、ということ。神様が、このような「出会い」、そして「家族」を備えてくださったのだということです。感謝。



「2022年、春」 (2022,4,3)

 

2022年を迎え、寒かった冬もどこかへ行き、暖かい春になりました。

あちこちで、桜の便りが聞かれますが、私たちは、近くなのに行ったことがない桜並木を発見、行ってみました。

 

清武町の、「丸目」という地域で、水無川の上流の堤防に桜が植えてあるのです。

 

 

 

 

天気が良くて、他に花見客もいましたよ。

 

 

 

 

 

 

家族らしい人たちが、大きな声で話しながら、歩いていました。

 

 

 

 

桜の、命がみなぎって、あちらこちらから、「噴き出してくる」ような、こんな咲き方に感動しました。

 

 

 

 

長いごぶさたでした。

 

コロナもあり、激動の2年余りでした。

 

 

 

 

「飼い葉桶とクリスマス」 (2019,12,6)  心のひろば12月号から



そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
                   ルカによる福音書2:1〜7

 

 

 飼い葉桶、とは、家畜の餌箱のことです。
 神のみ子イエス・キリストが生まれた時、家畜小屋にある「餌箱」の中に寝かせられた、というのです。「いと高き神のみ子」が、低く、低くなられたことの、象徴でしょうか。
 我が家は農家でしたから、農耕用の牛や馬を飼っていました。牛や馬は生き物ですから、
毎日餌を与え水を飲ませます。当然、糞や尿が出ますから、糞を運び出し、敷き藁を替え、尿は集めて貯めておきます。それらで堆肥を作り、田畑の肥料にします。匂いもきついし、手も足も汚れますが、農家には大事な仕事でした。

 しかし・・・、そんな場所に、赤ちやんを寝かせる人は・・・誰もいないでしょう。きっと。


 ヨセフとマリアは、宿屋を探したので すが、どこも満員で断られたのでした。 彼らには、「居場所」がなかったのです。 それで、止むを得ず家畜小屋に。そこで 時満ちて、出産となったのです。

 

 

 


 しかしこのことは、神様のご計画でした。
 夜、ベツレヘムの野で羊の世話をしていた 羊飼いたちに、救い主誕生の知らせが届け られると、彼らはすぐこの場所を探し当て、 生まれたばかりの救い主を礼拝し、その喜 びを人々に伝えた、と記されています。

 

 羊飼い、家畜小屋、そして、飼い葉桶に 眠る救い主。後に、「貧しい者は幸いであ る。天国はその人のものである。柔和な者 は幸いである、彼らは地を受け継ぐ」、と 語られるその方の、まさに、「目じるし」 だったのです。

 

 さて、「飼い葉桶」について、旧約聖書の箴言に、こんなことばがあります。

 「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが/豊作をもたらすのは牛の力。」 箴言14:4

 

 神学校を卒業する前、用事があって新幹線に乗っていた時、前の席に外国人が座りました。
世間話から始まり、そのうちにその人が宣教師だとわかり、話が弾みました。

日本に伝道に来ていろいろ苦労した、失敗もしたけど楽しかったことなど・・・。そしてもうすぐ牧師になるという私に、「このことばを贈ります」、と教えられたのが、「飼い葉桶は・・・」だったのです。


 何でもない、言わば当たり前のようなことなのですが、あれから40年以上経って、私の心に、このことばが何度もなんども迫ってくるのです。
 それは、「心を込めて世話をしなさい」、「隣人のために汗を流しなさい」、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」ということです。


 ひとりで生きていくのなら問題はありませんが、結婚すると相手に気を遣い、手も足も使わなければなりません。子どもが生まれ・・・6人生まれて、その世話は簡単ではありませんでした。赤ちゃんの時は「下の世話」、大きくなっても、親は、いろいろなかたちの「尻拭い」をさせられました。それで、子どもは一人前なったのです。


 曽野綾子さんは、ズバリ「介護とは、下の世話である」と言い切ります。
 母に介護が必要になった時、妻は最後まで、本当によくしてくれました。愛するとは、きれいごとではない、手を汚し、汗を流すこと、相手の汚れを自分が引き受けることだとわかりました。


 いや、自分が今こうして生きているのは、そのようにして愛されてきたことの、結果なのだとわかるのです。そして、やがて私もまた、自分の汚れを、誰かのお世話で、きれいにしてもらわなければならない時が来るでしょう。

 

 イエス、という名前には、「救う」という意味があります。キリストとは油注がれた者の意味。キリストが十字架に架けられたのは、過越の祭という時でした。祭の時、人々は羊を、そしてその血を献げました。それは、自分の罪・けが れを拭い去り、きれいにしてもらうためでした。
 キリストは、ご自分の血を献げ、私たちの身代わり となり、救い主となられたのです。ここに真実の愛が あります。人の生きるべき道があります。

 

 

 

 


 クリスマスは喜びです。贈り物をし、美味しい食事 を用意し、みんなで祝いましょう。そして、家畜小屋 で、飼い葉桶に寝かせられた神のみ子を、静かに想う ひととき、と、しませんか。
 

 

 

 



 

「花を育てる喜び」 (11,24)




秋になると、来年春に咲く花の種を蒔きます。

ことしは11月に入ってから、ゴテチャと、かすみ草の白と、少し遅れて、金魚草を蒔きました。

花の種って、とても小さいのです。

メガネをかけ、よく見て、やっと一粒が見えるくらいなので、蒔く時は

、親指と人差し指で種をつかみ、指を互い違いに少しずつずらしながら落ちるのを感じる・・・というような蒔き方なんです。

地に落ちた種は、ほとんど目に止まりません。

それに、蒔いた種の上に、土をかけてはいけないのです。

それで私は、寒冷紗で覆って、水をかけ、しばらくおきます。

10日もすると、こんな小さな「いのち」が芽生えてきます。

ボールペンの大きさと比べてください。

これは、金魚草の苗です。



これは、ゴチテャです。

種を蒔いてから、二週間経ちました。

種は小さいですが、ぐんぐん大きくなっていますね。





これは、かすみ草の白の苗です。

これも結構大きくなってきました。





花は食べられないけど、心の食べ物になる、とは星野富弘さんの言葉です。



畑で、カボチャやナス、キュウリ、白菜。キャベツなどを育てていますが、花を育てていると、食べるものとは違った・・・心が洗われるような気持ちになります。

神様は、私たちが生き延びて行くために必要なものを備えられるだけではなく、美しいもの、感動するもの・・・朝焼けとか、夕焼けとか、真っ赤に色づいた紅葉とか・・・人生を豊かにするものも、たくさん作ってくださいました。



野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。

働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。






 

「特別集会の案内」 (10,18)

 

 

福島第一原子力発電所の事故。

 

その時、原発から5キロ離れた所にある教会の証言です。

 

皆様、是非、おいでください。

 

 

 

 

10月27日は、賛美礼拝です。

楽しい賛美の集い、こちらにも、是非おいでください。

 

 

 



 

 

「想定内、想定外」 (10,18)・・・心のひろば10月号より

 

 

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
                  ペテロ第一の手紙4:12、13

 

 2011年、東日本大震災で福島第一原子力発電所を襲った津波は、14〜15メートル。

東京電力は、土木学会の津波の評価指針に基づいて津波の高さを想定。福島第一原発に到達する波の高さを5.7メートルとして原発を設計していたが、震災に伴う津波は約3倍の高さに到達し、原子炉の爆発という想定外の大事故を引き起こした。先日、当時の経営陣の刑事責任を問う裁判では、「無罪」が言い渡された。
事故で故郷を追われ、元の生活に戻れない人たちは数万人にのぼり、避難のどさくさで命を落とした人たちも多数いる。

被害者への損害賠償は行われているので、「刑事責任までは・・・」ということだったのだろうか。
 
今回の台風19号は「特別」な台風だったと言われる。

発生当初は、九州に来るかと思ったが、東海、関東、東北地方を直撃、広範囲に「想定外」の被害をもたらし、各地で堤防が決壊し洪水が起こった。
 驚いたのは、長野県で千曲川の氾濫が起こり、北陸新幹線の長野車両基地が水没したこと。

120両の新幹線が水に浸かり、最悪の場合廃車となるのだという。その場合、328億円の損害・・・となるらしい。

新幹線1両作るのに3億円もかかる、というのもびっくりだが、素人の考えだけれど、水のこない、もっと高い所に車両基地を作っておけば良かったのに・・・と思う。

これも想定外のことだったのだろう。

 

 

                       Newsサイトから

 

 天災、人災、人生にはいろいろ起きるので、私たちはそういうことも想定して生きている。

私は小さな木造瓦ぶきの家に住んでいるが、もし、今度の台風19号が直撃し、 60メートルの風が吹いたら・・・家が壊れる可能性があった、という。

台風は避けられない。そうなれば、諦めるしかないだろう。

まず命を守り、それから、それなりに生きていくしかない。
かつて宮崎は台風銀座と言われていた。
強風で瓦が飛んできて、雨戸にぶつかっ たこともある。

近所で新築中だった家の、 屋根の部分がそっくりそのまま飛ばされ て、隣の田んぼに落ちていたのを見たこ とがある。台風は恐ろしいと思う。

 

私たちの人生で起きる想定外のことを、できるだけ想定内に収めよう、としてできたのが、「保険」だろう。

健康保険はありがたい。私は盲腸、胆嚢、前立腺、蓄膿症、心臓などの手術を受け、ペースメーカーも入れている。

健康保険は、国民全体が支え合い、助け合う、世界に誇れる素晴らしい制度である。


私は毎日車に乗るので、任意の自動車保険に入っている。

最近、高齢者の起こす事故が増えたから、というので、支払う保険料が以前の2倍になったような気がしている。

車両保険は外して・・・である。それでも年間72,000円、月6千円という額になる。
しかし、1日2百円で、私が起こした事故の責任を取ってくれる・・・というのは有難いことだ。

・・・それでももし事故を起こしたら、翌年から保険料が高くなるので、「安全第一、いつも安全運転」でいこう。


さらに、生命保険がある。
私は生命保険というものに入らなかった。

それは、食べることで精一杯だったので、今、生きていくための食べ物を削ってまで、将来の安全を求める・・・、という気持ちにならなかったからである。

又、私たち夫婦が、信仰を持って生きてきたこともある。


「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 」(マタイ福音書6章33〜34節)


まず、1日1日を、精一杯生きていきなさい、と、言われているのだ。
私たちの結婚生活は、6畳一間から始まった。

結婚したのは3月26日、結婚祝いで少しふくらんでいた財布は、1ヶ月で空になった。・・・困った。
農家なのでコメはあったが、現金がない。どこかに1円玉が転がっていないか、と、家中を探したこともある。

しかし、ふたりで生きていくのは喜びがあった。
6月になって里芋の収穫があり、生き延びた。農家の収入は年に数回しかないので、やりくりには苦労した。


そのうちに子どもが与えられた。そして家族ぐるみで神学校に行き、牧師になる準備を始めた。お金がないので子どもを病院に連れていけ ないこともあった。

突然の交通事故もあった。「火の ような試練」と言われていることが、私たちの人生に も何度かあった。
しかし、想定外の試練、苦難にはまた、ふしぎに、 そこに天からの、そして友人たち・隣人からの、想定 外の温かい助けの手が備えられていた。そのおかげで 今がある。

 

 

 

 

想定外の苦難は、想定外の祝福の前兆なの だ。聖書のことばは本当だ、と思う。