きょうのひとこと・・・2019年4月〜

 



 

 

久しぶりの「食あたり」 (6,10)

 

 

昨日の日曜日、博多集会が開かれ、当番だったので、朝から妻と一緒に出かけました。


夜、11時前には帰り着き、ぐっすり寝て、今朝は早く起きて畑に行きました。

 

 

カボチャの受粉をします。早いものは、こんなになっています。

 

 

 

 

きゅうり、ミニトマト、オクラ、ナス、ピーマンを収穫。といっても、我が家で食べるくらいの分量ですが・・・。

 

 

 


朝ごはんをしっかり食べ、市役所に用事があったので出かけ、帰ってからお茶の時間。
いただいたミカンを食べました。


そのあと、1時間以くらいフルートの練習。きのうは忙しくて触りませんでしたが、きょうはそこそこいい音が出ました。


そして、お昼は力うどん。餅とお肉が入っています。

疲れが溜まっているので、休憩をしていたら・・・。


天井に吊り下げられている蛍光灯が、なんかぐるぐる回るような、不思議な感じがしてきました。


「おかしいな。疲れかな・・・」


と思っていたら、急に吐き気がして、トイレに行ったら、嘔吐、そして、下痢。


食べるものには、それなりに気をつけてきましたので、何年ぶりでしょうか・・・。

昼食べたものと、ミカンを吐き出してしまいました。


さらに・・・めまい。

 

何でだろう・・・、と考えて、思い出したことがありました。


お昼前にミカンを食べた時、それは夏みかんだったか、オレンジだったかよくわかりませんが、包丁で4つに切り分けた時、芯の部分が黒ずんでいたのです。
それでも、もったいない・・・と、中心の部分を包丁でカットし、残りを食べてしまったのです。
少し変な味がしましたが・・・。

 

何度も嘔吐して、そのうちに胃液のような苦いものが出るようになり、きついので、横になりました。


2時間ほど眠ったら、目まいもなくなり、ふらつきも止まっていました。

 

人間の「からだ」って、本当に良くできていますね。


危険なものは、吐き出す、というシステムがあり、私にもまだ、ちゃんと作動していました。
ありがたいことです。

 

これからは、「もったいないから・・・」と思わないで、怪しいものは食べないことにしようと決心しました。

 

 

 

 



 

 

「ナルドの香油(マリアの愛)」 (5,8)

 

 

 

またまたごぶさたでした。

皆様、10連休はいかがお過ごしでしたでしょうか。

私たちは、家でのんびり。

畑でのんびり。

温泉でのんびり、の10日間でした。

 

 

 さて、母の日にちなんで、次のお話をご覧ください。。

 

 

イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
                     ヨハネ福音書12:2〜3

 

 「香水」というものを使ったことがないので、ピンとこないのだが、「香り」を嫌いというわけではない。

妻も香水を持っていて時々いい香りが漂ってくることもある。

世界で最も高価な香水は、「Clive Christian Imperial Majesty Perfume」というどこかの国の皇帝が使う香水で、1300万円もするらしい。


 上記「ナルドの香油」は、スパイクナードと呼ばれるヒマラヤ原産の植物を、オリーブオイルに漬け込んで、香水にしたもの。貴重な、たいへん高価なもので、弟子のひとりユダがその香りをかいで、「この香水なら300デナリで売れる。」と値踏みした。1デナリとは当時の大人1日分の賃金で、今なら300万円というところだろうか。


 そんな貴重な香油の壺を惜しげもなく割って、マリアはイエスの足に注ぎ、自分の髪で拭いたのだという。


 マリアにはラザロという弟がいた。重い病気にかかり、ついに死んだ。葬儀も終わった4日目にイエスが来られ、埋葬されすでに臭くなっていたラザロをよみがえらせてくださったのだ。イエスは、このきょうだいたちを格別に愛しておられた、と記されている。マリアは驚き、そして嬉しかっただろう。どれほど感謝したことだろうか。


 上記の福音書の続きには、「家は香油の香りでいっぱいになった」と記されている。
 マリアの感謝の献げものが、その香りが、そこにいた人々を包んだことだろう。

 

 

 

 


 
 ところが、マリアの主イエスへの献げものは、弟子たちの冷たい批判の的になる。
「なんというもったいないことを。なぜこれを売って貧しい人々に 施さなかったのか・・・」、と。
 そのことばはマリアの耳にどう響いただろうか?
 ただ、主への感謝に突き動かされた、愛の献げもののつもりだったのに・・・。

 弟子たちの批判は、間違いではない。 イスラエルでは、日常的に貧しいやもめ や孤児を支える、という文化があった。律法によって、そのように定められていたのである。 神はご自分を「やもめ、孤児の神」とさ え自己紹介しておられる。

 

 しかしイエスは、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 
 と、優しく弟子たちをたしなめられた。


 この出来事の一週間後には、過越祭がやってきて、主イエスは十字架につけられる。

イエスは弟子たちに「わたしは多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」と話しておられた。

そのことばをマリアは聞いていたのだろうか。

 

 

 讃美歌391番に「ナルドつぼ」という美しい歌がある。
    ナルドのつぼ ならねど  ささげまつる わが愛
    みわざのため  主よ 潔めて うけませ  うけませ

 


 人は、愛に感じ、愛に動かされて生きるもの、ではないだろうか。
 ここには、権利、義務の世界ではない、愛と感謝と奉仕の世界が開けている。


 権利、義務には、その背後に束縛があり、罰も見え隠れする。
 しかし、愛と感謝と奉仕の世界には、ひろびろとした自由が広がっている。人はそこで呼吸をし、のびのびと成長し、本物の大人・人になっていくのだと思う。

 

 かつての、連合艦隊司令長官、山本五十六は、こんなことばを残している。


 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」。
 これには、続きがあって、「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」。


 これは、単なる処方箋と言うより、今まで自分に与えられた、そして与えられているたくさんの恵みの「手」を感じさせるものではないだろうか。 


 振り返ってみれば、私にも、生み育ててくれた親がいた。

 お乳を含ませ、おしっこやウンチの始末をし、汗を拭き、寒い時は暖かく、暑い時は涼しいように着替えさせ、大切に育ててくれた母がいる。

 

 きょうだい、友だち、そして自分の愚痴を親身になって聞き、支え、教えてくれる先生がいた。それで、数々の失敗も赦され、覆われてきた。

 そして今も、いっしょに働いてくれる優しい仲間がいて、こんな自分でも、かろうじて生かされている、と言わなければならない。

 

 

 ノーベル賞作家ロシアのボリス・パステルナークは、「創造の目的は献身にある。」と言う。


 聖書は、この世界、宇宙は神の手によって、神のことばによって創造された、と伝えているが、まず初めに神が、自然を造り、ご自分に似せて人を造り、愛し、支えておられるので、私たちもその愛に生きていこう、と招いている。


 十字架の上で主イエスは、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛しなさい。」と、手を広げ、招いておられる。

 

5月12日は、母の日です。